NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一は新一万円札の肖像にも選ばれ、数多くの企業を興した日本における資本主義の父としても知られています。

その渋沢栄一のライバルとして、しばしば対比されるのが今回のテーマとして取り上げる岩崎弥太郎です。

土佐国安芸郡、現在の高知県安芸市に生まれた岩崎弥太郎は、明治維新後に明治政府の支援の下、事業家として成功を収めて、三菱財閥の創業者となりました。三菱財閥は現在も続く三菱グループの礎となりました。

 

今回は岩崎弥太郎の半生を追うと共に、「財閥」とは実際どんなものだったのか、日本に与えた影響はどのようなものだったのかということについてもお伝えしていきたいと思います。

 

 

「財閥」とは何か

さて、「財閥」とはそもそも何なのでしょうか。

テレビドラマや映画に出てくることがあり、お金持ちや権力といったものへの想像につながるという方も多いのではないでしょうか。

財閥とは、簡単に一言で言ってしまうと、同族の独占企業体ということになります。

設立者の直系もしくは親族が経営に携わり、その一族がある種・分野の企業を独占していくという意味合いを持っています。

またよく「コンツェルン型の大型独占企業」とも言われます。

コンツェルン型とは、出資している本体があり、そこに連携した複数の会社が従属関係にあるということです。

 

三大財閥

日本における有名な財閥といえば三大財閥として挙げられる三井・三菱・住友になります。

非常に大きな組織であり、総合的に様々な分野の会社を保有していました。

今の時代にもその名を残し、多種多様な分野を手掛けています。

そんな財閥は日本の経済を支えると同時に、政治の世界にまで影響を及ぼすことがありました。

特に第二次世界大戦以前の財閥はその傾向が強く、日本経済の中心でありながら、政治との癒着ともいわれる密接な関係にあったのです。

ここからそんな財閥の歴史も遡っていきたいと思います。

 

財閥の歴史

財閥の歴史は古くからありました。

 

江戸時代-明治時代

日本でいえば16世紀末、世にいう江戸時代が発端となります。

日本の財閥の歴史は、鴻池家が清酒醸造を開始したところから始まると言われています。

鴻池一族がその後、両替商をはじめとして同族集団で財を得て、財閥へと発展していきました。

同時代に住友、三井の両財閥も誕生します。

中でも三井家が現在の三越の原型ともいえる越後屋を開業したのは、1673年のことでした。

明治時代には先の三菱など、いくつもの財閥が誕生しますが、中でも金融、鉄道、鉱山と事業を拡大したのが安田財閥でした。

現在のみずほ銀行は、この安田財閥が始めた安田銀行の流れを受け継いでいる銀行になります。

 

大正時代

大正時代になると新興財閥が生まれ始めました。

日中戦争をきっかけとして頭角を現した財閥があり、その代表が日産や理研などです。

いわゆる軍需産業に特化した企業でした。

 

昭和時代

昭和の財閥は技術者の創設者が増えていくのが特徴で、産業関係で関連性のある会社との関係を持ち、海外へも進出していく傾向がみられます。

そして戦時中になると軍用機などの生産が活発になり急成長していきますが、戦況の悪化、敗戦により衰退の一途を辿ります。

そうして日本敗戦後、GHQの占領政策の一環として、財閥解体が行われました。

その理由は財閥が日本軍国主義の制度を支援したとアメリカ側が考えたからです。

 

21世紀現在、日本には財閥は存在しません。

グループ企業という形はありますが、一族が独占している企業団体ではなくなっているからです。

第二次世界大戦の終戦、日本の敗戦とともに、日本における財閥の歴史は幕を閉じました。

 

なお、三井、住友、三菱は言うに及ばずですが、現代の大手企業の中にもこの財閥の流れを汲んでいるものが多くあります。日産自動車、日立製作所、富士通、横浜ゴム、富士重工業、野村證券、川崎重工、リコー、旭化成などがその代表的なものといえます。

 

三菱財閥の創業者 岩崎弥太郎

ここからはそんな財閥の中でも大きな力を振るった三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎の人生を辿っていきたいと思います。

 

(岩崎弥太郎 像 wikipediaより)

 

若くして頭角を現す

1835年1月9日、地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生誕します。

地下浪人とは郷土の株を売って居着いた浪人のことで、それは弥太郎の曽祖父の代のことだったそうです。

幼いころから文才を発揮し、14・5歳の頃には漢詩を藩主に披露するなど、才を認められていきました。

21歳頃に吉田東洋に教えを請い、その時に後藤象二郎らとも知り合いとなります。

1867年に後藤象二郎により土佐藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事するようになります。

坂本龍馬が脱藩の罪を許されて海援隊が土佐藩の外郭組織となると、その経理も担当するようになりました。

 

三菱商会の誕生

明治維新後、土佐商会は九十九商会と名称を変え、弥太郎はその海運業を行う私商社の指揮者となります。

廃藩置県後に九十九商会から、「三菱商会」へと名前を変え、この時より三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となりました。

 

三菱商会は海運業として、明治新政府の軍需輸送を独占して巨利を占め、全国汽船総トン数の73%まで手中に収めることとなり、これと並行した海運業からの多角化により、三菱財閥の基礎を築くことになったのです。

ちなみに、現在の三菱の「スリーダイヤのマーク」は、土佐藩藩主だった山内家の家紋「三つ葉柏紋」と、岩崎家のの家紋「三階菱紋」を合わせてつくられたものです。

 

渋沢栄一との熾烈な競争

隆盛を極める三菱商会でしたが、海運を独占して政商として膨張するやり方に批判も多く集まるようになり、なおかつ強力な後援者の大隈重信が失脚したことにより、さらに批判が強まるようになります。

そんな中、冒頭に上げた渋沢栄一を初めとする反三菱財閥勢力が投資しあって共同運輸会社を設立し、三菱に対抗するようになってきました。

結局、三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃もダンピングを繰り返した結果、競争開始以前の10分の1にまで引き下がってしまいました。

そんな最中、岩崎弥太郎はこの世を去ります。

満50歳。

胃がんのためでした。

 

弥太郎の死後、三菱商会は熾烈な争いを繰り広げた共同運輸会社と合併し、日本郵船となったのでした。

 

岩崎弥太郎の名言

武士から実業家に転身し、三菱の創業者となった岩崎弥太郎ですが、やはりその成功を成し遂げるためには、並々ならぬ信念があったようで、それは弥太郎が語った名言として、今に語り継がれています。

「部下を優遇し、事業の利益はなるべく多く彼らに分け与えよ。」
「自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。ゆえに事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ。」
「およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。」
「一日中、川の底をのぞいていたとて、魚は決して取れるものではない。たまたまたくさん魚がやってきても、その用意がなければ、素手ではつかめない。魚は招いて来るものでなく、来るときに向こうから勝手にやってくるものである。だから魚を獲ろうと思えば、常平生からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生全ての機会を補足するにも同じ事がいえる。」
「酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。」

 

これら以外にも多くの発言が名言として残されていますが、今、取り上げたものの中だけでも、とにかく成功するまでは何が何でもやり通すという強い意志を感じると共に、部下や顧客への目配りや、わずかな部分まで意識して物事を進めようとする緻密さも感じられます。

まさに用意周到にして、豪腕も持ち合わせた人物だったのではないでしょうか。

 

余談として、岩崎弥太郎が渋沢栄一に「二人で手を組めば利益をもっと上げられる」と協力を申し入れたことがあったそうですが、渋沢栄一はそれを断ったそうです。

企業の利益優先の岩崎と、社会への公益性を重視する渋沢とは、どうしても交われない部分があったようです。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

そのやり方に賛否両論があるものの、弥太郎が一代で三菱をここまでの大きな勢力とすることができたのは、情勢を的確に見定める目と、「絶対に成功させるんだ」という誰にも負けない心が為したものだといえると思います。

三菱含め、今の日本には財閥は一つも存在していませんが、財閥の存在が、現代日本の経済的基礎を作ったといっても過言ではないでしょう。

令和の時代となりましたが、未来だけでなく過去にも目を向けて、先人たちの足跡から、まだまだ多くのことを学ぶ必要があるといえるでしょう。

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