徳川15代将軍を覚えよう
こんにちは!オンライン家庭教師WAMです(^^)/
江戸時代というのは260年続いたと歴史の授業で習いますが、「長っ!」と思った方も多いのではないでしょうか。長く続いた江戸幕府の将軍は、家康からはじまり慶喜まで15人もいます。
今回は、その将軍の横顔を時代背景とともに映し出し、覚えてもらおうと思います。
Contents
江戸幕府について
歴史のおさらい 江戸幕府が誕生するまで
世は16世紀。このころ全世界が戦国乱世となっており、日本も応仁の乱以来、戦国武将が大名にのし上がり天下統一をうかがっていました。
その覇者=豊臣秀吉亡き後、徳川家康は関ケ原の戦いで秀吉の遺子=秀頼を担ぐ石田三成を破り、大阪夏の陣で豊臣氏を滅亡させると右大臣征夷大将軍の職につき江戸に幕府を開きます。
実はこの戦国乱世の後の国の治め方が、現代まで続く日本の将来を決定づけていきます。
では徳川氏が治める江戸幕府がどんな世の中を作ったかを見ていきましょう。
江戸時代ってこんな時代
時代劇に落語の寄席!江戸時代に産み出された文化は、現代のわたしたちにも共感しやすいものが多いですね。
田んぼの広がる風景も、農業生産性が一気に向上した江戸時代から生まれました。
だから江戸時代大好き!平和だし!という方も多いと思います。
その一方、教科書に書いてある「士農工商」といった厳しい身分制度が敷かれます。
生まれた家柄で一生が決まる人生です。これはお隣の強国の潮流と真逆(中国はとっくに自由市場社会)なのですが、戦に出ずともとりあえず生産した農作物で最低限生きていける世の中になったことと大いに関係しています。
キリスト教を禁止した幕府は、鎖国体制を敷きます。鎖国と言っても完全に海外との交流を断ったわけではなく、幕府管理の下、一部の国と交流を続けつつ、日本人の海外渡航を禁止にしました。
国内では、武士が城下町で消費者としてアーバンライフを営むようになります。
参勤交代による江戸での消費の活性化も後押しすると、商品経済がメチャメチャ発達を遂げます。
結果、経済的な力をもったのは「士農工商」の中で身分の最も低い商人でした。
ここから何が言えるか。
「士農工商」に戻って、こんな風に江戸社会を切り取っておきます。
一番身分の高いはずの武士は金欠、農民は食うのに必死(次男坊は養わず都市に捨てるほど)、商人はお金あるけど身分低い、という、みんながモヤモヤ不満を抱えつつ、でも平和だし発展しているし、という社会です。
何となく今の日本の空気と似ているかもしれませんね…。
いよいよ次章からこんな世の中を統べてきた将軍たちを登場させます。
全員知ってる?徳川15代将軍
徳川15代将軍早見表
徳川将軍の名前には「家」がつくことが多いことは知っている人も多いですがもう一点、注目すべき名前の特徴があります。
それは元服前の幼名にいくつか見られる「竹千代」という名です。
これは徳川家嫡男に付けられました。
生まれながらにして将来将軍になることが運命づけられていたプリンスは、家光③、家綱④、家治⑩のみ。
つまり、あとはみんな政治的意図や運によってつかみ取ったorなってしまった人ばかりです。
実子数の数からも、自分の子を後継に必ずしもできていないことがわかります。
また15人いればキャラクターも名君、ボンヤリ系、肉食から草食まで、さまざま揃っています。
名前の「家」については後で説明します。
覚えておきたい徳川将軍
あの出来事は、この将軍のとき起こった
家光③
1635(32歳)参勤交代
1637(34歳)天草・島原一揆
1639(36歳)ポルトガル船の来航禁止
父・秀忠②の頃から強固となった幕府の支配体制は、家光の頃には重臣たちがビシバシ執政を進めていきます。
大名を締め上げ、キリシタンを弾圧し武断政治を極めるとともに、対外的には鎖国体制を敷きました。
さぞかしマッチョな将軍かと思いきや、家光は幼い頃から病弱でルックスも悪く、両親から愛されずに育ちました。
特に母・お江がイケメン色白で利発な弟をあまりにもかわいがるため、家光はこっそり手鏡をもち化粧するほど精神的に追い詰められたというエピソードも(涙)。
そして上記の出来事の少し前、将軍だった家光はついに鬱を発症します。
と同時に、父・秀忠の無関心への反抗で祖父・家康①への思慕がつのり、大金を費やし家康を祀る日光東照宮を造営します。
いずれにせよ幕府による政治は将軍が先頭に立たなくても回るようになり、以降将軍は執政しなくてもいい存在に変わります。
綱吉⑤
1687(42歳)生類憐れみの令
1702(57歳)赤穂事件
家光③の四男だった綱吉は、長男・家綱④に子がいなかったため5代目将軍に就任します。
父の教えを必要以上に守り儒教に打ち込み、将軍になったあともしばしば重臣に講義を行うほど熱心なガリ勉でした。
彼の悩みはかなりの低身長(という説があり)と、後継ぎの息子がいないこと。
当時ハマっていた真言密教の僧に「子どもがほしければ生類を憐れむように」との助言をこれまた必要以上に鵜呑みにし、動物愛護法:生類憐れみの令を発令。
戌年(いぬどし)だった綱吉は、野犬の収容と保護を目的に巨大な犬小屋をつくらせ、生き物の殺生を厳しく処罰しました…。
子はめでたく生まれましたが…。一方このころから幕府の財政が傾きます。
吉宗⑧
1721(38歳)目安箱設置
1732(49歳)享保の飢饉
1742(59歳)公事方御定書
先代の家継⑦が齢8歳で亡くなり家光系が途絶える将軍家。
一方御三家の一つ、紀伊徳川家の四男だった吉宗は紀伊藩主になる目もなく気楽にいましたが、父、兄たちが相次いで死ぬと藩主の座が転がりこみます。
そこで緊縮財政と倹約により藩財政を回復させると、その手腕を買われあれよあれよと将軍に据えられました。
この財政手腕と強運を武器に享保の改革を主導するわけですが、米の価格をコントロールできずに失敗に終わりました。
しかし、将軍主導で幕府の権限強化・綱紀粛正を推し進めたことは大きく、15代の中でもとくに優れた将軍だったと言えます。
家定⑬
1854(31歳)ペリー再来日。日米和親条約締結
アメリカ人が来日し、鎖国体制が終わったこの大事なとき、将軍だったのは生まれつき病弱で身体に障害を抱えていた家定でした(頑健だった吉宗⑧とは正反対)。
折しも跡継ぎ問題で徳川家が大奥を巻き込んで大モメ。黒い思惑がはびこる中、幕府を切り盛りしたのは老中首座・阿部正弘。
皇室に根回しまでしてアメリカと和親条約を締結するも、その阿部も病に倒れあっけなく死亡します。
幕府オワコン化の流れの中、井伊直弼が大老としてこの国難を仕切ることになりました(一方、家定はお菓子を作って振る舞う趣味に時間を作っていたそうです…)。
家定は修好通商条約の年に亡くなっています。
慶喜⑮
1867(31歳)ええじゃないか、大政奉還、王政復古の大号令
跡継ぎ争いに敗れ14代将軍の座を逃していた慶喜は、薩長連合の後に家茂⑭が亡くなると30歳で将軍の座につきます。
上から目線をとりがちで気難しい性格のため、周りからの評判はあまりよくなかったそうです。天皇を味方につける段取りも運悪く失敗に終わると、討幕派からの「大政奉還の建白書」を受け入れ、政権をいったん朝廷に返上して幕府と雄藩による連合政権を構想します。
江戸時代、終了。しか~し!岩倉具視や薩長は幕府と政治を行う気はさらさらなかったため、雄藩のみで政権を樹立させる王政復古の大号令を行い、幕府は滅亡となりました。
徳川15代将軍の覚え方
名前に「家」がつく将軍、つかない将軍
秀忠②は豊臣秀吉から字をもらったため、家康の「家」を引き継いでいません。
その子、家光③は逆に「父親キライ/祖父崇拝」だったので「家」を名につけました。
この家光から、元服時に次の将軍候補には名前が「家○」とつけられました。
ただ将軍候補ではなくても将軍になれたらそのときに「家○」に改名することはできます。
綱吉⑤の甥・綱豊は、叔父の「綱」を捨て家宣⑥に名を変えました。
生類憐れみの令のイメージ、イヤだったんでしょうね…。
総じて言えるのは、吉宗⑧や慶喜⑮など「二世・三世タレント」とは異なる叩き上げの方が歴史に名を残しています。
徳川将軍の覚え方~暗記してみよう~
まずは名前にまつわる上記のストーリーからこの3代を覚えましょう。武断政治全盛期です。
◆家康①→秀忠②→家光③
次に思い出すのは綱吉⑤。その前に、家光③と綱吉⑤の中継地点として、
- 家綱④→綱吉⑤
次が難関。綱吉⑤の「綱」を捨て、「家」に戻ります。新井白石が活躍した時期です。
- 家宣⑥→家継⑦ ※「せん・つぐ」
お疲れさまです。次は超有名人です。
- 吉宗⑧
次が最難関。「家」シリーズ3連続。
- 家重⑨→家治⑩→家斉⑪ ※「吉宗の後は荷が重い!湿布をはる・なり」
パート2。ですが一気に最後まで行きましょう。
- 家慶⑫→家定⑬→家茂⑭→慶喜⑮ ※「慶・てい・しげ・慶」
まとめ
いかがだったでしょうか?少し苦しいかもしれませんが、早見表も参考に慣れていきましょう。
有能とは言えない将軍もいましたが、個性派ぞろいです。親しみが少しでもわいてもらえるとうれしいです。
歴代のアメリカ大統領についてまとめた記事もあるので、ぜひ!
■ この記事の監修者
オンライン家庭教師WAM講師。「数学(IA・IIB)・英語・社会」を中心に全科目対応。
現役で受験した大学には不合格。浪人生時代には悔しさをバネに猛勉強して挽回。どうすれば成績が上がるかや、実践的な国立大受験指導も可能。温和な性格で生徒に寄り添った丁寧な指導に定評ある講師。